2018年12月07日

生誕110年 東山魁夷展

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上野にある美術館のように、開場は9時半だと思って行ったら、10時でした。
でもすでに、入り口前には長蛇の列。人気がうかがえます。
また、今回の展覧会は、36日という比較的短い期間しか開催されません。
平日でもこうですから、最後の週末には大混雑は必至でしょう。

開場前から行列ができており、少しずつ時間を開けて中へ。
でも、どんどんその列は長くなっていた。

制作年と一緒に、本人の年齢もかっこ書きで記されているのがとてもわかりやすく思います。
何歳の時に描いたものか、すぐにわかります。

それはよかったのですが、解説がずいぶん細かい字だったのが、見づらかったです。
作品世界を邪魔しないためかもしれませんが、解説版が小さすぎて、みんな顔を近づけるように読んでいます。すると一度に何人もの人が読むようにはなっておらず、もともと混んでいる作品の前に、解説を読みたい人たちで、さらに黒山の人だかりができるといった状態になっていました。

作品保管のために会場は暗め。観客の年齢層を見ても、かなり年配の人が多いので、そういった年代を見越したフォントにするのが良いのではと思います。

また、そもそも解説自体、あまり多くありませんでした。
舞台がどこなのか、知りたい作品も多数ありましたが、わからずじまい。
本人が公表していないのかどうかもわかりませんでした。

ぼんやりと描かれるような作品が多いのですが、大作を間近で見ると、逆に曖昧な稜線で描き切ることの大変さが見て取れます。
額はどれもシンプルで、ルーベンスのゴージャスすぎる金の額縁とは対照的。
ガラスが入っている作品もちらほら。長野所蔵のものの管理が厳格でした。

《道》昭和25(1950)年
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《道》昭和25(1950)年 東京国立近代美術館

とても人気の高い作品ですが、実は私、この絵の良さがわかりません。
実物を目にしたらピンとくるのかと思いましたが、正直、やっぱりわかりませんでした。
私には名画を見る目がないのかしら…。
肩を落としましたが、解説によると、これは終戦から5年後に作られたもので、敗戦に打ちひしがれる人々に生きる希望を与えた一枚なのだとか。
なるほど、当時の時代背景あっての人気なのだと、理解できました。

《冬華》昭和39(1964)年 
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《冬華》昭和39(1964)年 東京国立近代美術館

美しい一枚。雪が降って一面真っ白な世界となった中で、木の枝に雪が積もり、まるで雪の花が咲いたようになっている光景です。

《花明り》昭和43(1968)年 
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《花明り》昭和43(1968)年 株式会社大和証券グループ本社

《冬華》と対になっているかのような一枚。こちらは春の光景。
暖かさや和んだ気持ちも一緒に伝わってきます。
こんな名画を大和証券グループが所蔵しているですね。

《濤声》(部分)昭和50(1975)年
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《濤声》(部分)昭和50(1975)年 唐招提寺

前の週に唐招提寺を訪れたばかりなので、興味深く見入りました。
といっても外観のみだったので、内部の襖絵は東京で見る形になります。
概して静かな、あまり動きのない絵が多い中で、この襖絵は鑑真和尚が超えてきた荒々しい海が描かれ、波風がうねっていました。
襖絵用にはめ込む

《緑響く》昭和57(1982)年
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《緑響く》昭和57(1982)年 長野県信濃美術館 東山魁夷館

彼の絵で一番好きなのは、白馬シリーズ。
彼にとっての白馬は、実在する生き物ではなく、心の平安を表しているそうです。

《夕星》平成11(1999)年
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《夕星》平成11(1999)年 長野県信濃美術館 東山魁夷館

画家が90歳で描いた、最後の作品。とても印象的な構図です。
もともとはパリの公園のスケッチだったものが、いつしか画家が夢で見た光景になっていったとのこと。
4本の樹木は、画家の両親と兄と弟だと言われています。
TVでは見ていましたが、実際に目の当たりにすると、ズシンと重い感動を受けました。

全体的に、この画家は秋・冬の季節を多く描いているように感じます。
自然の重々しさを感じます。

とても人気の高い画家ながら、大規模な回顧展は10年ぶりとのこと。
貴重な大作を一挙に鑑賞することができました。
彼の作品は、厳しい自然が描かれながらも、どれも優しく穏やかな画家の視線が感じられるものばかり。日本人の心象風景を情緒的に描いた、人気の高い画家であることを、再認識しました。
(画像はどれも公式サイトより転載)

生誕110年 東山魁夷展
国立新美術館
2018年10月24日(水)~12月3日(月)
posted by リカ at 16:16| Comment(0) | 【finearts】日本画 | 更新情報をチェックする

2018年12月06日

横浜維新 ~明治文明開化の礎となった横浜の歴史~

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講演者:宮川香山眞葛ミュージアム館長 山本博士

自分がとても好きな作家ながら、あまり世に知られていない宮川香山。
眞葛ミュージアム館長の講演を聴ける機会がありました。

● 開港当時の横浜村
まず、開港した当時、1859(安政6)年の横浜村は、人口482人の小さな海沿いの漁村でした。
今は380万人近い大都市になっています。

● 初代宮川香山(1842年-1916年)
もともとは京都出身。地元の円山公園付近を真葛が原といい、自分の窯にその地名をつけました。
もともと代々焼き物の家系に生まれ、近隣の雙林寺の住職から絵の手ほどきを受け、力をつけて行きます。

● 薩摩への誘い
名を馳せた彼のもとに、薩摩藩の家老の小松帯刀がやってきます。
薩摩焼の窯の改良を頼まれましたが、彼が35歳で病死したため、その話はとん挫しました。
あちこちから呼ばれていた中で、開港都市の横浜を勧められて移住、翌4年(1871)には太田村不二山下(南区庚台)に千坪の敷地の窯を構えました。
目的は、外国人に売るためでした。
窯には、連日外国からやってくるクライアントが買付のために、宿に荷物を置く間も惜しんで馬車を飛ばして駆け付けたそうです。

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『横浜諸会社諸商店之図』「陶器製造所 眞葛香山」神奈川県立歴史博物館

● 第一回内国勧業博覧会
明治10(1877)年に開催されたこの博覧会に、彼はヘチマがついた大きな壺を出品。
視察に訪れた明治天皇が、そのヘチマを触られたそうです。
その壺は、大久保利通が購入したとのことです。

● 国の重要文化財の明治時代制作の日本の焼き物
国の重要文化財に指定されている、明治時代制作の日本の焼き物は、たった3点のみ。
なんと、そのうち2点が香山の作品です。
日本であまり知られていないのは、作品がほとんど海外に輸出されてしまっていたから。
海外の万博でたびたび受賞。
明治4年に眞葛窯を開き、明治9年のフィラデルフィア万国博覧会で絶賛され、彼の名前は世界中に知られることとなりました。

● 横浜大空襲
昭和17年には117万人いた横浜の人口は、1945年(昭和20年)の横浜大空襲後、62万人に激減。
約2人に1人が命を落としたことになります。
横浜は、1時間に43万8570発の焼夷弾を受けて、焼け野原になりました。
米軍は、横浜でも4か所に集中的に攻撃をしたらしく、その一つがお三宮日枝神社でした。
おそらくそのあおりで、太田村の眞葛窯も壊滅的被害を受けたと思われます。

● 横浜眞葛窯の終焉
横浜大空襲の爆撃を受けて3代は死去し、工房も壊滅的な被害を受けました。
その後、兄弟が4代として復興を試みるも、戦後の混乱でうまく行かず、窯を閉じることとなりました。
そもそも作るのに半年から2年と、大層長い時間がかかるもの。
よほどの技術がないと、存続は難しいのです。
たまたま川崎の法政2校に通っていた次男は難を免れて、16歳で家督を継ぐことになりましたが、プロにはなりませんでした。
今はその息子が家長。ソニーのエンジニアをされているそうです。

● 真葛窯の跡地
元真葛焼の釜があった場所(南区庚台)のすぐそばに以前住んでいた私。
館長は、入り口付近だったと思われる場所に建つ家の人と友人だそうで、その家が立て替えをする際に、発掘調査を行ったそう。
すると窯で作られた陶器の破片がたくさん出てきたそうです。
唯一残っていた窯の煉瓦塀が工事で壊されてしまったことを、館長はとても残念がっていました。
市が保護してくれればよかったのですが。

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初代宮川香山作『崖二鷹花瓶 一対』 眞葛ミュージアム保管 個人蔵

● 伊藤若沖のモチーフ
初代香山の作品に伊藤若沖のモチーフが見られるそう。
同じ京都出身の画家として、幼いころから作画を知っていた可能性があるのと、海外に人気であることを知っていたからかもしれないとのこと。
つららの下のおしどり夫婦など、作品に若沖との共通点が見られます。

● 作風を大きく変えた理由
外国人の顧客が、過剰な装飾を施した作品から、日本本来の控えめな美しさを求めはじめたのに合わせて、絵付けをした上に透明な釉薬(ゆうやく)をかけて焼き上げる「釉下彩(ゆうかさい)」を作り始めました。
二代目によると、もともと初代は、落ち着いた渋い作品が好みだったそうですが、海外のニーズに合わせてダイナミックな作品を造っていたそう。
クライアントの好みが変わってくると、高浮彫の手法をやめて、ニーズに会わせた作品に変更したとのこと。
時代の流れを観ながら作風を合わせるという、マーケティング力に優れていたビジネスマンでした。
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『琅釉(ろうかんゆう)蟹付花瓶』明治~大正 山本博士蔵

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初代宮川香山の最晩年の作品。リアルな蟹の装飾と釉下彩が施されています。
かつてのダイナミックな作風と、後の静謐な作風が入り混じった絶妙な作品です。

● 幻の焼き物
真葛焼そのものが幻といわれているが、さらに幻となっているのが三笠焼。
軽井沢の三笠ホテルからの依頼で、地元の浅間山の軽石で作った陶器を作ったものです。
ただ、雪が深い場所なのであまり陶芸に適さず、10年しか活動しなかったため、幻といわれているそうです。
さらにレアなのが、晩年の新ブランド、狸亭。
これはたった半年しか活動しませんでした。

● 二つの真葛焼
ちなみに京都にも真葛焼はあります。
初代とは血縁関係はないが、二代目に使う許可をもらったと主張しているとのこと。横浜と裁判になったが、裁判所の決定は、許可。
京都の方は続いており、横浜の方は途絶えているからというのがその理由。
ただ、作風は全く違うとのこと。

● 真葛ミュージアム
講演後、館長のご厚意でミュージアムを鑑賞しました。
前出の『琅釉蟹付花瓶』もここで見られます。

あまり所蔵品は多くなく、スペースも小さいながら、初代香山のコレクションとしては日本最大。
今となっては、フェルメールのようにレア。海外にあるだろう彼の作品が見られる日を期待したいところですが、美術館ではなく貴族の館が所蔵していると、なかなか来日の機会はなさそう。

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真葛焼が今も続いていたら、間違いなく横浜、そして日本が誇る窯であり続けただろうと思うととても残念です。
ただ、この館長の尽力で、かなり世に知られるようになってきました。
市をあげて、もっと協力していってもいいのではないかと思います。

土曜・日曜 開館