2011年07月18日

「蕗谷虹児展」

fukiyatirasi.jpgそごう美術館

ちらしを見た時には、『それいゆ』の中原淳一に近い画家なのかと思いましたが、実際に作品を目の前にすると、かなり違う才能を持った人だとわかりました。
蕗谷虹児(1898-1979)は、両親が10代で駆け落ちしてできた子供だとのこと。
情熱的な親だったんだなあと思っていたら、本人も19歳で人妻と不倫をし、それがばれて樺太(サハリン)に逃げ、2年半身を隠していたと、淡々と紹介されていました。
当時のマタギのような格好をした自画像もありました。
作品そっちのけで、画家の歩んだ道に驚きます。
親も子も、なんて破天荒な恋愛をしているのでしょう。やはりこれもDNAでしょうか。


中原淳一よりも竹下夢二に似ていると思ったら、たしかに本人も憧憬しており、作品の透写を重ねていたとのこと。
かわいらしいというよりも、愁いのある乙女の絵を多く書いています。
大正浪漫風のをとめ。愁いと官能、そして孤独を漂わせる、印象的で魅惑的な女性ばかり。
弥生美術館所蔵作品が多いのも、ジャンル的にうなずけます。

曲線的で妖艶な美女を書いたかと思うと、直線的ですっきりいなせな江戸男も描ける幅の広さ。
『令女界』という雑誌の表紙を飾り続けており、バックナンバーが展示されていました。
西條八十や堀口大学、川端康成の挿絵も手掛け、自伝的作品も発表したとのこと。
まとめて保存しているところが無いのか、出身の新発田市・刈谷市美術館、ギャラリーや個人蔵など、一冊一冊所蔵元が違っていました。

首を傾けた憂い顔の女性を描かせたら、たしかに夢二と並ぶほど。
吉屋信子の『花物語』の装丁を、タイトルのレタリング含め手掛けており、全てに神経のいき届いた作品世界の質の高さにうっとりしました。

関東大震災も体験し、そののちに『震災画報』という雑誌に寄稿しています。
当時の被災地ではちょうちんが使われていたと、絵によって知ります。「生き残れる者の嘆き」など、先日の震災後の私たちには胸に迫る作品でした。

その後、パリに4年間住むことに。
絹を用いた伝統的な日本画の手法を使って、作品を世に出していったそうです。
エコール・ド・パリでサロンでの入選も果たし、順風満帆なフランス生活だったようですが、生活困窮のために帰国することに。

その後、日本は戦争に突入していき、華美で繊細な少女雑誌は、厳しく規制されたとのこと。
時代に翻弄され、好きな絵も描けずに、つらい時を過ごしたことと思います。

彼の作品の女性はどれもファッション性が高く、当時の女性たちは、それを見てモードを知っていったのでしょう。
細身の女性がまとうすっきりしたデザインは、いかにも流行の先端をいったモダンなものばかり。
和装も洋服も手掛けています。

BK091071_1.jpg私が一番心ひかれたのは、この作品。見ていてドキドキします。
しかしタイトルを忘れてしまいました。

日本に留学した魯迅も、彼の才能に惚れこんで、上海で『蕗谷虹児書選』を出版していました。
詩は魯迅が漢訳したものが掲載されているとのこと。ファンだったんですね。

ビクターのレコードジャケットも手掛けていました。コレクションとして最適です。
また、名作絵本の挿絵も数多く出していました。どの作品も、とてもかわいらしい絵となっています。
戦争画家ではなかった彼ですが、従軍兵を描いたものもありました。

彼の描く女性は、曲線的で妖艶ではあっても、肉感的セクシーさはなく、夢のひとという印象。
生涯を通じて少女の夢を形にし続けた画家なんだなあと思います。
最後に遺品が展示されていました。
鉛絵の具や様々な絵筆、履け、絵皿やペン先が丁寧に保管されており、没後もなお愛され続けている人物だということがわかりました。
posted by リカ at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 【finearts】日本画 | 更新情報をチェックする
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